枕草子: 321

321
ものくらうなりて、文字もかかれずなりたり。筆も使ひはてて、これを書きはてばや。この草紙は、目に見え、心に思ふ事を、人やは見んずると思ひて、徒然なる里居のほどに、書き集めたるを、あいなく、人のため便なきいひ過しなどしつべき所々もあれば、きようかくしたりと思ふを、涙せきあへずこそなりにけれ。宮の御前に、内大臣の奉り給へりけるを、「これに何を書かまし。うへの御前には、史記といふ文を書かせ給へる」などの給はせしを、「枕にこそはし侍らめ」と申ししかば、「さば得よ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや何やと、つきせずおほかる紙の數を、書きつくさんとせしに、いと物おぼえぬことぞおほかるや。大かたこれは世の中にをかしき事を、人のめでたしなど思ふべき事、なほ選り出でて、歌などをも、木、草、鳥、蟲をもいひ出したらばこそ、思ふほどよりはわろし、心見えなりともそしられめ。ただ心ひとつに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけたれば、物に立ちまじり、人なみなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、はづかしきなども、見る人はの給ふなれば、いとあやしくぞあるや。實にそれもことわり、人の憎むをもよしといひ、譽むるをもあしといふは、心の程こそおしはからるれ。ただ人に見えけんぞねたきや。