71
おぼつかなきもの
十二年の山籠の法師の女親。知らぬ所に闇なるに行きたるに、あらはにもぞあるとて、火もともさで、さすがになみゐたる。今いで來るものの心も知らぬに、やんごとなき物もたせて人の許やりたるに、遲くかへる。物いはぬ兒の、そりくつがへりて人にも抱かれず泣きたる。暗きに覆盆子食ひたる。人の顏見しらぬ物見。
72
たとしへなきもの
夏と冬と。夜と晝と。雨ふると日てると。若きと老いたると。人の笑ふと腹だつと。黒きと白きと。思ふと憎むと。藍と黄蘖と。雨と霧と。おなじ人ながらも志うせぬるは、誠にあらぬ人とぞ覺ゆるかし。
73
常磐木おほかる處に烏のねて、夜中ばかりにいねさわがしくおぢ惑ひ、木づたひて、ねおびれたる聲に鳴きたるこそ、晝のみめにはたがひてをかしけれ。
74
忍びたる處にては夏こそをかしけれ。いみじう短き夜のいとはかなく明けぬるに、つゆ寐ずなりぬ。やがて萬の所あけながらなれば、涼しう見わたされたり。なほ今少しいふべき事のあれば、互にいらへどもするほどに、ただ居たる前より、烏の高く鳴きて行くこそ、いとけそうなる心地してをかしけれ。
75
冬のいみじく寒きに、思ふ人とうづもれ臥して聞くに、鐘の音のただ物の底なるやうに聞ゆるもをかし。烏の聲もはじめは羽のうちに口をこめながら鳴けば、いみじう物深く遠きが、つぎ〳〵になるままに近く聞ゆるもをかし。



