枕草子: 161-165

161
くるしげなるもの
夜泣といふ物する兒の乳母。思ふ人二人もちて、こなたかなたに恨みふすべられたる男。こはき物怪あづかりたる驗者。驗だに早くばよかるべきを、さしもなきを、さすがに人わらはれにあらじと念ずる、いとくるしげなり。理なく物うたがひする男に、いみじう思はれたる女。一の所にときめく人も、え安くはあらねど、それはよかンめり。こころいられしたる人。
162
うらやましきもの
經など習ひて、いみじくたどしくて、忘れがちにて、かへすおなじ所を讀むに、法師は理、男も女も、くるとやすらかに讀みたるこそ、あれがやうに、いつの折とこそ、ふと覺ゆれ。心地など煩ひて臥したるに、うち笑ひ物いひ、思ふ事なげにて歩みありく人こそ、いみじくうらやましけれ。稻荷に思ひおこして參りたるに、中の御社のほど、わりなく苦しきを念じてのぼる程に、いささか苦しげもなく、後れて來と見えたる者どもの、唯ゆきにさきだちて詣づる、いとうらやまし。二月午の日の曉に、いそぎしかど、坂のなからばかり歩みしかば、巳の時ばかりになりにけり。やう暑くさへなりて、まことにわびしう かからぬ人も世にあらんものを、何しに詣でつらんとまで涙落ちてやすむに、三十餘ばかりなる女の、つぼ裝束などにはあらで、ただ引きはこえたるが、「まろは七たびまうでし侍るぞ。三たびはまうでぬ、四たびはことにもあらず未には下向しぬべし」と道に逢ひたる人にうち言ひて、くだりゆきしこそ、ただなる所にては目もとまるまじきことの、かれが身に只今ならばやとおぼえしか。男も、女も、法師も、よき子もちたる人、いみじううらやまし。髮長く麗しう、さがりばなどめでたき人。やんごとなき人の、人にかしづかれ給ふも、いとうらやまし。手よく書き、歌よく詠みて、物のをりにもまづとり出でらるる人。よき人の御前に、女房いと數多さぶらふに、心にくき所へ遣すべき仰書などを、誰も鳥の跡のやうにはなどかはあらん、されど下などにあるをわざと召して、御硯おろしてかかせ給ふ、うらやまし。さやうの事は、所のおとななどになりぬれば、實になにはわたりの遠からぬも、事に隨ひて書くを、これはさはあらで、上達部のもと、又始めてまゐらんなど申さする人の女などには、心ことに、うへより始めてつくろはせ給へるを、集りて、戲にねたがりいふめり。琴笛ならふに、さこそはまだしき程は、かれがやうにいつしかと覺ゆめれ。うち東宮の御乳母、うへの女房の御かたゆるされたる。三昧堂たてて、よひあかつきにいのられたる人。雙六うつに、かたきの賽ききたる。まことに世を思ひすてたるひじり。
163
とくゆかしきもの
卷染、村濃、括物など染めたる。人の子産みたる、男女疾く聞かまほし。よき人はさらなり、えせもの、下種の分際だにきかまほし。除目のまだつとめて、かならずしる人のなるべきをりも聞かまほし。思ふ人のおこせたる文。
164
こころもとなきもの
人の許に、頓の物ぬひにやりて待つほど。物見に急ぎ出でて、今やとくるしう居入りつつ、あなたをまもらへたる心地。子産むべき人の、ほど過ぐるまでさるけしきのなき。遠き所より思ふ人の文を得て、かたく封じたる續飯など放ちあくる、心もとなし。物見に急ぎ出でて、事なりにけりとて、白き笞など見つけたるに、近くやりよする程、佗しうおりてもいぬべき心地こそすれ。知られじと思ふ人のあるに、前なる人に教へて物いはせたる。いつしかと待ち出でたる兒の、五十日百日などのほどになりたる、行末いと心もとなし。頓のもの縫ふに、くらきをり針に糸つくる。されど我はさるものにて、ありぬべき所をとらへて人につけさするに、それも急げばにやあらん、頓にもえさし入れぬを、「いで唯なすげそ」といへど、さすがになどてかはと思ひがほにえさらぬは、にくささへそひぬ。何事にもあれ、急ぎて物へ行くをり、まづわがさるべき所へ行くとて、「只今おこせん」とて出でぬる車待つ程こそ心もとなけれ。大路往きけるを、さなりけると喜びたれば、外ざまに往ぬるいとくちをし。まして物見に出でんとてあるに、「事はなりぬらん」などいふを聞くこそわびしけれ。子うみける人の、後のこと久しき。物見にや、又御寺まうでなどに、諸共にあるべき人を乘せに往きたるを、車さし寄せたてるが、頓にも乘らで待たするもいと心もとなく、うちすてても往ぬべき心地する。とみに煎炭おこす、いと心もとなし。人の歌の返し疾くすべきを、え詠み得ぬほど、いと心もとなし。懸想人などはさしも急ぐまじけれど、おのづから又さるべきをりもあり。又まして女も男も、ただに言ひかはすほどは、疾きのみこそはと思ふほどに、あいなく僻事も出でくるぞかし。又心地あしく、物おそろしきほど、夜の明くるまつこそ、いみじう心もとなけれ。はぐろめのひる程も心もとなし。
165
故殿の御服の頃、六月三十日の御祓といふ事に出でさせ給ふべきを、職の御曹司は方あしとて、官のつかさのあいたる所に渡らせ給へり。その夜は、さばかり暑くわりなき闇にて、何事もせばう瓦葺にてさまことなり。例のやうに格子などもなく、唯めぐりて御簾ばかりをぞかけたる、なか珍しうをかし。女房庭におりなどして遊ぶ。前栽には萱草といふ草を、架垣ゆひていと多く植ゑたりける、花きはやかに重りて咲きたる、むべしき所の前栽にはよし。時づかさなどは唯かたはらにて、鐘の音も例には似ず聞ゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十餘人ばかり、そなたに行きてはしり寄り、たかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、薄鈍の裳、同じ色の衣單襲、紅の袴どもを著てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空よりおりたるにやとぞ見ゆる。おなじわかさなれど、おしあげられたる人はえまじらで、うらやましげに見あげたるもをかし。日暮れてくらまぎれにぞ、過したる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出できて、たはぶれ騒ぎ笑ふもあめりしを、「かうはせぬ事なり、上達部のつき給ひしなどに、女房どものぼり、上官などの居る障子を皆打ち通しそこなひたり」など苦しがるものもあれど、ききも入れず。屋のいと古くて、瓦葺なればにやあらん、暑さの世に知らねば、御簾の外に夜も臥したるに、ふるき所なれば、蜈蚣といふもの、日ひと日おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集りたるなど、いとおそろしき。殿上人日ごとに參り、夜も居明し、物言ふを聞きて、「秋ばかりにや、太政官の地の、今やかうのにはとならん事を」と誦し出でたりし人こそをかしかりしか。秋になりたれど、かたへ涼しからぬ風の、所がらなンめり。さすがに蟲の聲などは聞えたり。八日にかへらせたまへば、七夕祭などにて、例より近う見ゆるは、ほどのせばければなンめり。